「RE:LIC」による写真アートの企画展 河村 るみ × RE:LIC
Still Life(Law)
河村 るみ × RE:LIC
Rumi Kawamura × RE:LIC
Inkjet output
2015
Edition of 5
Mass ~The Trilogy
河村 るみ × RE:LIC
Rumi Kawamura × RE:LIC
Lambda Print
2015
Edition of 5
-MULTI LAYER-とは、いくつもの層になって重なっていること、多重層を意味します。
作品構造が多層的に作られ、その中に身体性が強く現れてくるという共通点を持ちながら、絵画、パフォーマンス、インスタレーションと、表現媒体の異なる3人の作家の展覧会。
観察することをテーマに、展示空間そのものを観察現場としました。自身の身体を場の一部とし、観察する者、される者として、空間に置き、運動と静止を、規則正しく繰り返すルールのパフォーマンスを行ないました。また、この会場には、カメラが2台設置されていて、カメラの視点とパフォーマーの視点、来場者自身の視点が、意識的且つ、無意識的に関係しあう場になっています。
来場者は、展示会場の正面に設置されたカメラに記録され、正面の壁にリアルタイムで姿が映し出されます。来場者も同様に、観察者であり、観察対象になります。この、見ることと見られることの間、空間に立つことを体験することによって、私たちは何を見ていて、何を見ていないのか、そこから何かを感じ、何を持ち帰ることが出来るのか、と問う試みをしました。
展示空間の構造は壁面に3つの映像が映し出されています。
①自身のルールで行なっている行為を示唆する映像。実際にこの場所で行ないました。また、パフォーマンス内容は運動と静止(会場を歩く、椅子に座る)を繰り返しています。
④⑤に椅子が置いてあります。
④の位置からスタート5分間椅子に座って静止→5分会場を歩く→⑤の位置の椅子へ移動し座り、静止→5分会場を歩く→④の位置の椅子へ移動し静止
(繰り返す)
②会場のリアルタイムが映し出された映像。(Aのカメラで撮影) 来場者は入り口の扉の前に立つだけで、カメラに記録され、正面斜めに反転した姿が映し出されます。
③この場所の昨日の様子を、記録した映像が映し出されています。映像をプロジェクションしながら、その場所の記録をしているので、映像の中には24時間前の今、48時間前の今と過去の今の状況が、重なって,見えています。(Bのカメラで撮影)
⑤の位置には、②と③の映像の一部分が重なっており、リアルタイムの映像と過去の映像、今の状況が重なっています。
①自身のルールで行なっている行為を示唆する映像と、隣り合う場所に椅子が置かれ、そこに座っている。あたかもリアルタイムの映像が映し出されているかの様にみえるが、異なる。それは、現場にある松葉杖が映像の中には無いことや運動のズレで分かる。
③の椅子が置かれている場所は、映像が重なり光量が強くなり、その部分が明るくなる。過去の映像と現在の映像、今ここに居る身体が実際に出会う場所となる。
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②の会場のリアルタイムが映し出された映像。(Aのカメラで撮影)
空間に立つ姿。 リアルタイム映像の中に写る姿。 プロジェクションの光で出来た影の姿。 が向かい合って、重なりあい、ズレていく。映像に近づくと影が大きくなり、映る姿もカメラの視界から消える。遠く離れた位置では自身の姿を全貌できるが、近づくと姿は見えなくなってしまう。
昨日の私と3日前の私、4日、5日前の私。映像の中の私と戯れるように、松葉杖をついてゆっくりと、歩く。ここにある身体は無機質に存立する。来場者は同じ場所にいながら、直接関わり合うことは出来ない。ただ、この場所だけが明け渡される。
会場を歩き回り、構造を見る。繰り返す行為を見て、真似して動き、椅子に座ってみる。映像の中に入り込む。自身の映る像を見て、その場から立ち去る。
来場者の観察する行為をパフォーマンスをしながら、観察する以外に、この場所では何も起らない。
私は、「私は私が分からない」という問いから作品制作を初め、「存在すること」を考えれば、考えるほど、私であるであろう事や、物は、提示した瞬間に、「私」は離れて、逃げて行き、つかむ事ができません。絶え間なく変化を繰り返しながら、平衡をたもち、ゆっくりゆっくり、死へと向かっていくようです。結局のところ、私というものはなく、変化しているという現象だけが現前し続けていて、だからこそ私は、今、この場所に立ち、目の前に広がる風景を、見ている時だけは、私は、ここにあるのかもしれないと、感じていたいのです。観察すること、ただ見るだけでは得られないこともあるし、ただ見ているだけで得られることもある。そんなことを考えながら、ただ生きていることを、自分の目で、見たいのです。
きっと、この文章も明日には気に入らないものになるでしょう。
最後に、展覧会前の事故により足首の怪我をして、松葉杖をついていますが、作品の意図やコンセプトには全く関係ありません。ご了承ください。
(会場テキストより)
- うたたね - パフォーマンス 映像インスタレーション
会場となる料亭『寿ゞ家』の客間を使用した、パフォーマンス 映像インスタレーション。
客間に最低限の手を加えること、掃除をし、この場所に居るパフォーマンスをしました。その様子を映像に記録したものを、同じ場所に投影しながら、期間中毎日、来場者と共にこの場所で過ごしました。
投影される映像の中には24時間前の今、48時間前の今、といった過去の同じ時間の様子が見られ、現在の今、ここに重なっていきます。
天保の頃は、旅籠『鈴屋』昭和に入って料亭『寿ゞ家』現在は足助ゴエンナーレとアートの場へ、と時代と共に役割も名所もかわる。それだけの変化を受け入れる力がこの建物にはあって、変わらず、多くの人が行き交い、この場所で顔を合わせている。この場所にいること、ただそれだけでいいのかもしれない。昔使われていた頃と同じ様に、宴会し、話、本を読んだり、休んだり。
今ここに居ない誰かも、呼び起こし、うたたねしながら見る、白昼夢のような、ひとときの日常を経験します。